翻訳と辞書
Words near each other
・ ジョー・シャーロン
・ ジョー・シュミット
・ ジョー・シュミット (アメリカンフットボール)
・ ジョー・シュミット (ラグビー選手)
・ ジョー・シュレッサー
・ ジョー・シリング
・ ジョー・シーウェル
・ ジョー・シーノア
・ ジョー・ジャイルズ
・ ジョー・ジャクソン
ジョー・ジャクソン (ミュージシャン)
・ ジョー・ジャクソン (野球)
・ ジョー・ジュニア
・ ジョー・ジョナス
・ ジョー・ジョンストン
・ ジョー・ジョンソン
・ ジョー・ジョンソン (曖昧さ回避)
・ ジョー・ジョーダン
・ ジョー・ジョーダン (サッカー選手)
・ ジョー・ジョーンズ


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ジョー・ジャクソン (ミュージシャン) : ミニ英和和英辞書
ジョー・ジャクソン (ミュージシャン)[じゃくそん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ジャクソン : [じゃくそん]
 【名詞】 1. Jackson 2. (n) Jackson

ジョー・ジャクソン (ミュージシャン) : ウィキペディア日本語版
ジョー・ジャクソン (ミュージシャン)[じゃくそん]

ジョー・ジャクソンJoe Jackson1954年8月11日 - )は、イギリススタッフォードシャー、バートン・アポン・トレント (Burton-Upon-Trent) 生まれのミュージシャンである。本名デイヴィッド・イアン・ジャクソン(David Ian Jackson)。
== 経歴 ==
11歳の時に学校でヴァイオリンのレッスンを受け始めるが、作曲に興味を持ち始め、ピアノの方が作曲に向いているという考えでピアノに切り替えた。
16歳から、バーで演奏するようになり、高校卒業テストで音楽のSレベル(高等教育修了証の上級レベル)を得、作曲を学ぶためにロンドンロイヤル・アカデミー・オブ・ミュージック奨学生として入学する。奨学金で新しい楽器や器具などを買い、ポーツマスの自宅から週に数日ロンドンの大学へと通った。しかしながら、クラシックの作曲家になることに限界を感じたジャクソンは、ロックの世界に惹かれていった。
在学中も地元ポーツマスの海軍基地のバーやパブなどで演奏活動を続け、1975年に大学を卒業。その後アームズ&レッグスなど、いくつかのバンドに参加するも長続きせず、ピアニスト兼音楽監督としてクラブで働くようになる。この頃から自ら制作したデモ・テープをレコード会社に送り始める。1978年に、A&Mレコードのプロデューサー、デヴィッド・カーシェンバウムがジャクソンの曲に目をつけ、レコーディングのチャンスを得た。それが、1979年にリリースされたデビュー・アルバム「ルック・シャープ(Look Sharp!)」で、収録曲「ゴット・ザ・タイム」はアンスラックスによるカバー・バージョンでも知られる。1980年には、「アイム・ザ・マン(I'm the Man)」と 「ビート・クレイジー(Beat Crazy)」を立て続けにリリースする。「ビート・クレイジー」では、プリンス・リンカーン・トンプソンとコラボレートし、レゲエを取り入れている。
その後、数年間続いたツアーで腺熱を患い、ポーツマスの自宅で静養していたジョー・ジャクソンは、スウィング・ジャズの発展形であるジャイブ・ミュージックのレコードを毎日のように聴き、回復後ジャイブに挑戦しその結果Jumpin' Jiveを1981年にリリース。1982年にはラテン音楽に惹かれてNY渡り、「ナイト・アンド・デイ」(Night and Day)をリリースする。このアルバムに収録されている「夜の街へ(Steppin' Out)」は、最もよく知られた曲である。「夜の街へ」は、ビルボード(Billboard)誌で、1982年12月11日に、週間ランキング最高位の第6位を獲得。1982年ビルボード誌年間ランキングでは第36位。その頃ジャクソンは離婚してNYに移住。「音楽スポンジ」ともいえるジャクソンは、新たな環境でラテン音楽の影響を強く受ける。1984年の作品"Body & Soul"のオープニングチューンである"The Verdict"は、マツダ・ファミリアのCM曲としても用いられた。
その後もジャズやクラシックなどの要素を取り入れるとともに、アルバム制作や演奏手法についても独創的な試みを重ねた。たとえば、1986年の"Big World"ではライブレコーディングという手法を採用した。これは、オーバーダビングなどの手法を一切使わずにバンドの全パートが同時に演奏するものであった。さらにレコーディング会場には聴衆を入場させ、雑音を立てないよう、また拍手は演奏が完全に終了するまで待つなどの注意喚起がなされた。これに加えて当時導入されつつあったデジタル技術を駆使し、ライブの緊張感とスタジオレコーディングの品質を両立させるという意欲的な試みであった。ジャクソンいわく、ライブ演奏は最高の喜びであり、レコーディングは止むを得ない必要悪だという。
1987年の"Will Power"はオーケストラ編成によるアルバムであり、1988年には日本フィルハーモニー交響楽団とともに同作品を昭和女子大学人見記念講堂およびサントリーホールにおいて上演した。同作品の上演はこの2回のみである。また1988年にはジョージ・ルーカス製作、フランシス・フォード・コッポラ監督の米映画『タッカー』の音楽を担当した。
1990年代初期はジャクソンにとって自分の音楽に対する姿勢を見直す苦しい時期だった。うつ病に苦しみ、自らの意思でポップの世界から「引退」。その2年間は作曲どころか、音楽を楽しむことさへできなくなったほど落ち込んだが、1994年にはうつ病を克服し、ランキングやレコードの売上げを考えずに「自分の作りたい音楽」に専念し、内観的な「Night Music」をリリースした。その頃、母校ロイヤル・アカデミー・オブ・ミュージックの特別会員として迎えられる。1999年には「音楽に関する本・自叙伝」、A Cure For Gravity(日本語版なし)を著作。同本は、ラルフ・J・グリーソン・ミュージック・ブック賞の最終選考作品に選ばれる。
近年はかつてのジョー・ジャクソン・バンドを再結成し、シンプルな編成のロックに回帰し、2003年、2006年、2007年にツアーを果たしている。2004年にはトッド・ラングレンとツアーし、スター・トレックのキャプテン・カークことウィリアム・シャットナーと共演するなど多様な創造性を発揮している。2008年早々には、ジョー・ジャクソン・バンドの新しいCDと、2007年ツアーの映像を収めたDVDがリリースされる予定。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ジョー・ジャクソン (ミュージシャン)」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.